‘飛鳥時代’ カテゴリーのアーカイブ

飛鳥時代その2

2009 年 4 月 8 日 水曜日

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子と、息子である大友皇子との間で、争いが起こった。672年壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
681年には、律令の編纂を開始した。5年後の686年に天武は没する。8年後の689年に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定される。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始される。690年には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となった。692年には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。
694年には藤原京に都を定めた。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立とみる。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われた。
710年に平城京へ遷都した。

飛鳥時代とは?

2009 年 4 月 7 日 火曜日

飛鳥時代は、古墳時代の終末期と重なるが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期があったが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的である。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもある。
この時代に倭国(倭)から日本へ国号を変えたとされている。

538年に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼした。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年には蘇我馬子が飛鳥に法興寺の建立を始める。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子が皇太子に立てられ摂政となった。604年には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた。
法隆寺金堂607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。の上表文をおくる。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。
国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものである。